コンピュータの擬人化
コンピュータを扱う人間はよくそれを擬人化した表現で扱う。
“パソコンを休ませる”、”ディスクががんばっている”、”アプリケーションをころす”、”動かなくなる”、”コアダンプを吐く”、等々、、
適切な日本語がないためやむを得ず言っている場合もあるが、多くの場合はコンピュータが人格を「持っていることにする」ために、好んで使っている。(他の技術系のジャンルでも同じかもしれない)
ノイマン型のコンピュータである以上、バックで動くプログラムは他ならぬ人間が作った物で、もし仮に人格があるとすればそのプログラムを書いた人間の物だ。 しかし、プログラムは人間の想像を遙かにしのぐスピードと正確さで動く。 プログラマーの人格にプラスアルファされて、ここに違う人格が現れ始める。
この辺の、技術の裏には人間が居る的な間接的コミュニケーションと、作ったプログラマーでさえ結果が何が起きるのか分からない摩訶不思議な感覚は、好き者を集め、そしてその愛情は先の “コンピュータが人格を持っていることにする” につながる。
この愛情表現が、一般的に格好いいものなのか気持ちが悪いものなのかは、身を置いている自分にはよく分からないが、表現はテレビなんかを通じて一般にもおりていく。 同種の愛情を持っていない人は、額面通りこの表現を信じ、
コンピュータは自身が人格を持ち、考えるものだ。
と理解を始める。
得体のしれない物に対して人間は、恐怖という感情をいだく。 タネが分かっているものに対して怖いと思う人はいない。 コンピュータのタネを知らない人間は、恐怖を覚える。 その恐怖を、知識が打ち消そうし結果、気持ち悪い物だとして嫌悪感抱くものもいる。
コンピュータは地震の予知はしない。 予知の方法を考えているのは他ならぬ人間であり、そのツールとしてコンピュータは使われている。 正しい知識は妙な嫌悪感から人を解放し、そして正しい評価を人にすることができる。
コンピュータに人格はないとするのは夢がないとするむきもあるかもしれないが、後ろに人がいないとすることは、もっと夢がないことだと思う。